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イタリア珊瑚展覧会『永遠の誘惑』in 神戸

『日伊交流史は、建造物のように消し去ることができない。サンゴを介したイタリア側の需要と、日本側の供給の接点は、神戸を中心とする珊瑚商人同士のネットワークに結実し、両国の経済や文化の発展と交流に大きな寄与をしたからである。』(中野泰 筑波大学 歴史・人類学専攻)

イタリア珊瑚展覧会『永遠の誘惑~イタリアの珊瑚・真珠商と神戸との交流および歴史』を開催します。
会場では、神戸で活動したイタリア人珊瑚。真珠商の活動や現地の人々の交流を記録した写真、イタリアの職人の手による珊瑚製品を展示し、珊瑚を介した日伊交流の歴史に思いを馳せます。

また、開催期間中、会場ではデリア社がイタリア人職人作のジュエリーを販売します。

 


筑波大学 歴史・人類学専攻/中野泰先生からご寄稿いただきました。

日本とイタリアの出会い-神戸における珊瑚商人-   
            中野泰 筑波大学 歴史・人類学専攻

1.はじめに

この展覧会に解説文を寄せるにあたって、近代日本におけるイタリアとの交流史の1例として「神戸における珊瑚商人」を紹介する。というのは、神戸における珊瑚商人の事蹟は、これまでの研究で取り上げられることが少なく、その実態は一般にほとんど知られていないからである。

2.イタリアの珊瑚商人と神戸

(1)神戸とイタリア 鎖国から開国へ政策を転換した江戸幕府は、日米和親条約から12年遅れて、日伊修好通商条約を締結した(1866年)。開港された神戸に、イタリア領事館が置かれ、神戸におけるイタリア人の活動の拠点を提供した。

神戸に居住するイタリア人は、1871[明治4]年当時2人であったが、1899年[明治32]当時10人、1909年[明治42]年には15人、1920年[大正9]年には18人であった[i]。イギリス人の626人と比較すると少数ではあったが(1909年)、音楽隊を率いるリゼッチ(Rizzetti , Alessandro)、京都大学でイタリア語教員をつとめたガスコ(Alfonso, Gasco)、あるいは、化粧品会社を経営するデルブルゴ(DELBOURGO & Co)等、多様な職業を通じて神戸へイタリアの文化を広める役割も担っていた。

異彩を放っていたのは珊瑚商人だ。「神戸在留イタリア人の特色」を「珊瑚専門」と評した『神戸又新日報』は、「当地在留の伊国商人は殆ど全部土佐と縁故の深い珊瑚商で皆小締まりとした営業振だ」とし、他の商売は一軒であると報じている(1915年[大正4]5月23日)。

(2)珊瑚とイタリア人商人の来日 ヨーロッパにおけるサンゴ・珊瑚製品の交易には古い歴史がある。18世紀末、フランスのマルセイユ市場が衰退し、イタリアが交易の中心となった。だが、イタリア近海のサンゴ漁場の発見に伴う乱獲と枯渇によって価格が暴落し、新たな珊瑚供給地が切に望まれていた。一説によると、義和団の鎮圧に向かった欧州の軍隊に参加したイタリア人兵士が、香港で販売されていたサンゴに目を留め、それを聞いた珊瑚商人が、その産地が日本であることを知り、極東の日本へサンゴを求めて遠征するようになったという[ii]。陸路としては、シベリアを縦断し、ウラジオストックを経由し、40日ほどをかけて来日した。海路としては、ナポリ、あるいはブリンディジ発の汽船に乗船し、スエズ運河を渡り、コロンボ、シンガポール、香港、上海を経て、60日ほどかけて来日した。

(3)珊瑚商人 神戸におけるイタリア人の居住情報を確認すると、明治末から第二次世界大戦前まで、断続的だが約40年弱の記録が認められる[iii]。イタリア人珊瑚商人の初出は1908年[明治41]のDi Rosa(山本通り1丁目)である。1914年からはG. LAZZARA & CO. を確認できる。Giovanni Lazzaraは、北イタリアのリボルノから来ていた珊瑚貿易の開拓者の1人である[iv]。LIGUORI F. & G., Coral and Pearl Dealersの名も1925年以降、確認でき、平行して、Liguori & Sons, G.の名も見える。

サンゴの原木を神戸で仕入れて、イタリア人商人は、ドイツ系商社、及び、三井系列の物産会社及び銀行(いずれも神戸支店)を経由してイタリア(リボルノ)へ送った[v]。イタリア側貿易年額統計から盛んな時期を見てみると、イタリアへ輸入されたサンゴの数量においては、45トン中の約95%、価格においては、約495万リラ中の約98%を日本が占め、最大の供給国であった(1906年[明治39])。日本政府はサンゴの貿易価値に気付き、明治40年代に入って、日本のサンゴ漁業の調査を遅まきながら開始した次第であった[vi]。

(4)活動拠点 イタリア珊瑚商人はごく僅かな少人数で活動していた。Di Rosaの場合、当人とFukahori, Teranishiの2人の名が事務所に記されている。後2者は通訳を兼ねた被雇用者であろう。事務所と同じ住所には、Di Rosaと Mrs E. Di Rosaと記されている。夫婦で来神し、事務所を兼ねた住まいを活動拠点にしていたのであろう。『神戸又新日報』の記事は、珊瑚商人は「取扱ふ商品は容積小さく従って特に商館を元居留地に構ふるの必要なきを以て多く山手に住み自邸に於て営業し居れる」とし、中でもDi Rosaについては「在留伊国人の幹部」であると記している(1911年[明治44]10月3日)。

これらの記録は時折途絶える。例えば、イタリアとオスマン帝国(トルコ)との間の争いが始まると一部の商人は帰国した(同上『神戸又新日報』)。帰国したDi Rosaの場合、翌年に名前を確認できない。2年後に確認できる事務所は北野町(3丁目78)と移転している。珊瑚交易には第一次世界大戦、昭和恐慌、第二次世界大戦と3つの危機があった。珊瑚商人は、これらの国際情勢へ敏感に反応し、覆い被さる困難を乗り越えなければならなかった。

3.トッレ・デル・グレコの珊瑚商人

(1)地方買い付け 商人の中には、地方へ自ら赴き、サンゴの原木を直接買い付ける者もいた。長崎県五島列島の福江島における例は、フィクションではあるが、小説『珊瑚』(新田次郎著、新潮文庫、1978年)に描かれ、高知県の例については、庄境邦雄氏の研究書に詳しい。イタリア人商人は、仲買人の家で文机に座り足元のサンゴの山から別の箱に入れて買い付けるサンゴを選び、鶏を絞めて、持参の調味料をかけ、持参したビールやシャンパンとともに食していた。1911年頃に訪れた商人は、ジーノ・ラッザーラ、バルトロメオ・マッツァ、アニェッロ・オノラートであった[vii]。

(2)トッレ・デル・グレコと高知県の珊瑚商人 Bartolomeo Mazza、Aniello Onorato両氏は南イタリアのトッレ・デル・グレコ(Torre del Greco)出身の珊瑚商人である。東京のイタリア大使館からイタリア外務省へなされた報告は、イタリアへのサンゴ輸入の多くが、トッレ・デル・グレコ出身者によって担われているとし、G.Liguori, A. Onorato, E. Rosa, G. de Dilectis, A. Borrelli, G. Dilectis, R. Gentile, G. Vitelli, M. Vitielloら9人の名を挙げている[viii]。トッレ・デル・グレコの商人は、商社に依存せず、イタリアへ直送するルートを開拓した。彼らには興味深い逸話がある。日本近海のサンゴは4種類に分類されるが、桃色、白色等の色彩は、地中海に生息する1種類の赤サンゴに慣れていたイタリア人の心を強く刺激した。赤サンゴをイタリア人へ高く売りつけようとする日本人の思惑を見抜き、桃色の珊瑚を安く入手するために、insignificante、つまり、イタリア語で無意味と名付けて入札に臨んだのはトッレ・デル・グレコ商人であった。それを通訳が「ボケ」と訳し、以後、通称されるようになったという。

(3)神戸における交流 珊瑚商業に従事した老舗の1つに1790年創業のD’Elia Companyがある。現在の代表をつとめるAlfonso Vitiello氏にとって、M. Vitielloは叔父にあたり、神戸で活躍したトッレ・デル・グレコ人の系譜を引いている。氏所蔵の写真は神戸における珊瑚商人の活動と日本との関わりをリアルに見せてくれる。例えば、写真 である。椅子に座った者達の氏名はAniello Onorato、A. Borrelli 、R. Gentile、M. Vitiello。これら4人は以上の記録や報告と合致する[ix]。床に正座した和装の者はKamei-sanと通称されていた[x]。Kamei-sanは、高知県幡多郡の下川口の珊瑚商人亀井家の系列に連なろう。神戸における多くの珊瑚商人の先駆けともいえる[xi]。神戸における商業活動の早い時期に撮影されたものと考えられ、貴重であると同時に注目される。

(4)珊瑚製品とアート 珊瑚商人の多くがトッレ・デル・グレコ出身者であった理由は、トッレ・デル・グレコが、珊瑚産業の長い歴史を有していることによる。

珊瑚の宗教的な意味づけは、先史時代に遡る遺物の例を挙げるまでもなく、その後もキリスト教信仰に関わる祭具などに引き継がれて今日に至っている。ナポリでは、ブルボン王カルロ7世が1783年に設けた「貴石工芸所」内の「彫刻学校」のように、アラゴン王家時代から受け継がれた貝殻や貴石への彫刻技術の伝統がある。トッレ・デル・グレコでは、この「貴石工芸所」の閉鎖を契機として、珊瑚加工専門学校を設立(1878年)し、珊瑚に加え、溶岩、貝殻カメオ、鼈甲、象牙、その他の貴石の彫刻も含め、教育が行われた。世界的に著名な彫刻家Carlo Parlati[1934-2003]は、この学校で彫刻を学んだトッレ・デル・グレコ出身者である。このように、美術的な造形、芸術品も生み出され、珊瑚製品の種類や質は多様化し、日本から輸入された桃色サンゴ、すなわち、ボケを用いた彫刻の逸品(天使の肌とも呼ばれた)も数え切れない。高知県出身の彫刻家前川通泰氏は、和風の技術を現代に発展させた珊瑚彫刻で知られ、トッレ・デル・グレコにおいて個展(2000年)を開き、国際的に高く評価されている。

3.おわりに

神戸の珊瑚商人の商館は、異人館として遜色ない建築物である(この商館は、残念ながら現存しないし、その住所も未だ明らかではない。お気づきの方がいれば是非ご教示頂きたい)。現存していれば、必ずや、伝統的建造物群の1つに認定されていたであろう。

しかし、日伊交流史は、建造物のように消し去ることができない。サンゴを介したイタリア側の需要と、日本側の供給の接点は、神戸を中心とする珊瑚商人同士のネットワークに結実し、両国の経済や文化の発展と交流に大きな寄与をしたからである。

交流の事実と物語は今日に接続している。Alfonso Vitiello氏所蔵の写真が、その交流史を鮮やかに物語っていることに加え、展示される珊瑚、カメオ、真珠等の製品の背景には、一方で、トッレ・デル・グレコ、及び、ナポリの歴史が、他方で、神戸に始まる日本、及び、日本人との交流の歴史が流れている。今日、資源枯渇に伴い、ワシントン条約等、輸出にかかわる国際的な規制はサンゴにも及び、持続的な可能性が模索され、試みられている。神戸における珊瑚商人の存在は、未来へ向けて過去の物語を創造的に伝えていくために、どのようにしたら良いのかを語りかけ、また、考えさせてもくれるのである。

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[i]田井玲子、『外国人居留地と神戸』、神戸新聞総合出版センター、2013年。『新修神戸市史(産業経済編Ⅳ:総論)』、神戸市、2014年。

[ii] Liverino, Basilio. Il corallo : esperienze e ricordi di un corallaro. Analisi, 1984.

[iii] The Japan Directory for the yearの各年版。

[iv] C. Del Mare, Manifatture in corallo a Genova, Livorno e Napoli tra il Seicento e l’Ottocento, in Mirabilia Coralii, Arte’m, 2011.

[v] Liverino前掲書。農商務省水産講習所、『欧米鹹水養殖視察報告』、1916年。

[vi]農商務省水産講習所前掲書。農商務省水産局『水産貿易要覧』、1903年。農商務省水産局『水産調査報告』、13・14巻、1908年。

[vii]庄境邦雄『さんごの海:土佐珊瑚の文化と歴史』、高知新聞社、2013年。

[viii] Carlo, Arrivabene, La Pesca del corallo nel Giappone. MINISTERO DEGLI AFFARI ESTERI, 1912, GIUGNO.

[ix] 神戸市立外国人墓地内のイタリア人墓地の中には、例えば、Bartolomeo PALOMBA等、珊瑚商人やトッレ・デル・グレコ人と思われる墓がある。Lia Beretta, Italiani nei cimiteri del Giappone, Istituto Italiano e Culutura, Tokyo, 2002.

[x] The Japan Directory for the yearによれば、1914年[大正3]からKamei Genshichi氏が中山手通り4丁目に、1917年[大正6]Kamei, Senji氏の名が中山手通り6丁目にあり、庄境邦雄氏の研究書に登場する亀井源七氏、亀井専次(治カ)氏と比定できる。

[xi]日本珊瑚漁業協同組合の設立[1956-]に寄与した新谷虎重氏は高知県幡多郡の出身(『宝石サンゴ:その夢とロマン』、神戸新聞出版センター、1980年)、トッレ・デル・グレコ名誉市民賞を受賞[1999年]した小島計敏氏は長崎県五島列島福江島の出身である(『サンゴとともに:神戸サンゴ株式会社創立四十周年記念』、神戸新聞総合出版センター)。

  • 主催: イタリア文化会館-大阪
  • 協力: D'Elia Company